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メッティーラで元日本軍人の遺骨に出会ったときに、俺の頭になぜかもう4~5年前に訪れたバガンで、偶然訪れ休憩させて頂いたお寺でお参りした、元日本兵の慰霊碑(弓部隊の碑)が浮かび、“バガンへ足を伸ばしお参り行こう”という思いが浮かび、少し予定を変更して急遽バガンへ足を伸ばすことにした。 弓部隊の慰霊碑でセンコウを備え寺を後にし訪れる観光客も少ない、壁画のかなり保存状態の良い小さなパコダを訪れ、奉ってある大きなブッタの像に敬意の経を唱えて壁画を鑑賞していると、日本人らしきご夫婦がガイドの説明を聞いておられるのに気がつき 『私タイのお寺で、上座部佛教の修行させて頂いている、日本人比丘の藤川ですが、どこから来られたのですか?』と声を掛けると、奥さんのほうが 『私たちは千葉の船橋から来ました。』 『私の父はかつてインパール作戦に参加し、シャン州のインレーで終戦を迎えたそうです。その父も4年前に亡くなったのですが、父は、生前このミャンマーで共に戦い死んでいった、戦友のことが脳裏を離れず、毎年のようにミャンマーへ亡き戦友の慰霊に訪れていたので、今年はその父の意思を継いで、20日にヤンゴンの日本人墓地で行われる、元日本兵合同慰霊祭に参列させて頂くために、一昨日夫と一緒にミャンマーへ来たのです。今回私たちをミャンマーへ連れて来てくださった、亡き父の戦友の方があの車で休んで居られます。』 “そうでしたか、ではチョットその元日本兵士にご挨拶させて頂きます”と言って、ご老人が休んで居られるミニバスに近づき、車の窓をコツコツとノックして “ご苦労様です。私タイのお寺で出家し15年になる藤川と申します”と言って、窓越しにご挨拶すると 『日本の方でしたか!』と言って、ご不自由な足を引きずり杖にすがって、運転者に支えられ降りてこられ 『私はインパールで敗れメッティーラまで敗走し、他の部隊の生き残った兵士を寄せ集め部隊を再編成し、最後は残っていた手榴弾を2個は敵の陣地を襲い、残りの1個は自決するために、一人3個づつ分け合い陣地を構築したのですが、圧倒的な戦力の敵戦車部隊に蹴散らされ逃げ回り、マラリヤの高熱に侵され倒れていたところを、心優しいミャンマー人ご夫婦に助けて頂き、そのお宅に隠まれて居たとき敗戦を知りメッティーラの捕虜収容所から、敗戦から3年後にアメリカ軍の船に乗せられ、日本へ生還したのです。』 『日本に帰って来たあとも14~5年間は、このビルマでの戦闘が頭から離れず、いつも寝ると夜中にうなされて目が覚めたものです。夢で目覚めることも無くなった今でも、マナリヤの後遺症で時々高熱に悩まされています。』 『日本へ帰国したときからすぐにでも、ビルマへ戦友の遺骨収集と慰問に訪れたかったのですが、当時のビルマは鎖国政策を引いており入国が不可能だったのですが、敗戦20年後に開国されそれから40年間は毎年慰問に訪れています。』 『実は20日にヤンゴンの日本人墓地で、ビルマ全日本兵士合同慰霊祭が行われるのですが、お坊さんもし時間があるようなら参加していただけませんか?』と、聞かされ “20日の夕方の便でバンコクへ向かいますが、午前中でしたら私からお願いして、喜んで参加させて頂きます“と承諾し慰霊祭に参列させて貰うことになった。 20日の朝8時に、俺の宿泊先でご老人一行のミニバスに拾ってもらい、ヤンゴン郊外にある日本人墓地に連れて行って頂き、日本各地から駆けつけて来られた、元日本兵士やそのご家族・遺族・関係者40人ほどの皆様と一緒に、慰霊碑に献花し“回向”経をバーリー語で唱えさせて頂くことが出来た。 俺が何年か前にメッティーラの僧院境内に“日本語学校の建設”を思い立ったのは、偶然に訪れたメッティーラを訪れた時に『この地で多くの若い日本兵士が亡くなり、戦いで傷つき病に侵された元日本兵の多くが、メッティーラの人々に助けられたおかげで生きて日本へ帰ることが出来た』と言う事実を知り、この地のゼイゴン僧院で、若き比丘ダンマタラ師から日本語を学んでいる、ダンマタラ師に請われ当時の日本の話をさせて頂いたときに、食いるように俺の話を聞いてくれた150名ほどの生徒たちの熱い眼差しに『ヒョットしたらこの子たちは、父母や兄弟・姉妹を故郷に残し無念な思いで亡くなった、元日本兵士の生まれ変わり(輪廻)では』と瞼を涙で濡らしのが出発点だったのだ。 今回の旅ででは再びこの思いに幾度瞼を熱くしたことだろう。 俺はこの地の土となった元兵士に『安らかに眠ってください!』とは祈らない。 『どうかこの地に再生された命を生一杯生きてください』と心から祈らせて頂いた。 そして、この地に生きる人々の幸せを祈らずにはいられなかった。 ~生きとし生きるものが幸せでありますように~ 合掌 オモロイ坊主を囲む会の ホームページ www.omoroibouzu.com 人生問答が人気の、無料メルマガ! オモロイ坊主こと藤川 チンナワンソ 和尚のヴィパッサナー瞑想指導動画&癒しの動画 人気blogランキングへ
by omoroibouzu
| 2007-02-21 22:42
| タイの仏教事情
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